広島駅を出てすぐ、稲荷町方面へ向かう途中にある猿猴橋(えんこうばし)。多くの人が何気なく渡るこの橋に、広島の街の始まりから、原爆の悲劇、そして復興の歴史まで、知られざる物語が秘められていることをご存じでしょうか。
今回は、広島市内で現存する橋梁としては最古とされるこの橋が、いかにして広島の歴史を見守り続けてきたのか、その驚くべき物語を紐解いていきましょう。
広島の「東の玄関口」として築かれた猿猴橋
猿猴橋の歴史は古く、毛利輝元が広島城を築城した頃にまで遡ります。城下町への「東の玄関口」として、また、江戸時代の主要な街道である西国街道の一部として、重要な役割を担っていました。
明治時代に広島駅が開業すると、その役割はさらに重要なものとなります。人々は駅を出ると、必ずこの橋を渡って市内中心部へと向かいました。猿猴橋は、まさに旅人や商人、そして市民にとって、広島の街と出会う最初の場所だったのです。
伝説の生き物「猿猴」と華麗なる装飾
橋の名前の由来となった**「猿猴(えんこう)」**とは、猿に似た姿をした河童の一種で、広島の猿猴川に住んでいたとされる伝説の生き物です。現在、橋のたもとには、猿猴のブロンズ像が設置されており、ユニークな姿で訪れる人々を迎えてくれます。
現在の猿猴橋は、大正時代に造られたコンクリート製の橋を復元したものです。当時は「広島一」と称されるほど優美な姿で、特に以下の装飾が人々の目を楽しませていました。
- 親柱のタカの像:空高く舞うタカの姿は、市民の幸せを願う縁起の良い象徴として設置されました。
- 欄干のサルの透かし彫り:橋の名前の由来となった「猿猴」を表しており、緻密なデザインが施されています。
原爆の悲劇と復興を見守った「被爆橋梁」
1945年8月6日。猿猴橋は、爆心地からわずか約1.8kmという至近距離で、原爆の爆風と熱線にさらされました。しかし、奇跡的に落橋することなく、その姿を保ちました。
原爆投下後、猿猴橋は被爆した人々の重要な避難路となりました。負傷した人々は、この橋を渡り、東練兵場(現在の広島大学医学部周辺)に設けられた救護所を目指しました。橋の欄干には、被爆直後に横たわっていた人々の体温で、鉄骨の塗装が溶けた痕跡が今も残されていると言われています。
戦時中の金属供出により、タカやサルの飾りは失われましたが、市民の「美しい橋をもう一度」という願いが実を結び、2016年に大正時代の姿が忠実に復元されました。
現代の猿猴橋、そして未来へ
近年、広島電鉄の駅前大橋ルートの開通に伴い、長年親しまれてきた猿猴橋を渡る路面電車は廃止されました。
しかし、猿猴橋が持つ歴史的価値は変わりません。かつて駅へと向かう路面電車が通っていた橋の上を、今では多くの人々が歩き、被爆の悲劇と、平和への願いを伝える橋として、その役割を果たしています。
広島を訪れた際には、ぜひ猿猴橋に立ち止まって、その歴史に思いを馳せてみてください。あなたの足元にある橋は、時代を超えて広島の街を見守り続けてきた、生きる歴史の証人なのです。
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